頭にあったことの吐き出し
長らくアウトプットをしてなかったなぁ、と最近気づいた。
例えばこころに浮かんでとどめておきたいことはあるんだけれど、そしてふとした際に何度も思い出すんだけども、浮かぶだけで流れていく。
言葉にしないでもやもやと心の中に霧散していく。そんなかんじだった。
「したいこと」がたくさんあって。「しなければならないこと」もそれなりにあって。
寝る間をおしんで没頭することもできるんだろうけど、体質として必ず休養をとらないとやっていけないこともわかっていて。ぼーっとする時間も必要。落ち着いて寝るためには就寝数時間前からトーンダウンすることも大切。となるとできることも限られてきてしまう。
優先順位をつけると結局、火急の用件から片付けていって、熟考すべきことなんかは時間が取れてなかったなぁ、と。
2月後半からは大きな方向決め・決断をする時期で、まだ進行中ではあるけれど、情報を集めて決定していくことに時間を割いていた。ずっと「いつかこうしたい」と思っていたけれども、自分だけで決めてしまうわけにはいかず先延ばしにしていたこと。まだ変えなくてもいいかもしれないけれど、新しくするならもういまがそのときだ、という思い切りがついた。動き出すまでは頭の中だけでぐるぐるしていたけれど、動いて現状が見えたら思いのほかはっきりと決めやすく、意見を表明したらまわりも賛成してくれた。思ったほど大変じゃなかったんだ。
3月中にある程度のめどがついて、ようやくほっとできた感じがする。ここからまだまだ本腰入れた作業も多いんだけれど、選択を迫られるわけではなく、ひとつひとつこなしていくしかないから、考える労力のようなものはそれほど必要ないかな。
そこまで片付けてきてようやく、ずっと抱えていたけれども言葉に表せていなかった考えたち、なんとなく持っていたもやもや、自分のもつ理想と現状の違いやすべきことの洗い出し、そういったことを出していく必要があるなぁ~という思いにたどり着いた。
実際問題、使いすぎてなくて勉強したことたちもだいぶ忘れていた。使わないとさびるんだよなぁ、習得するには時間がかかるというのに。
あと自分の感情もうまく整理ができなくて、コントロールできてなかったなぁということも、振り返りだせそうな気がする。ぶつけてしまった感情や言葉をなしにすることはできなくて、いまだにどうしたもんかとへこむことはあるんだけれど。機を見てごめんなさいとありがとうは伝えようと思う。そのためにも自分をふくふくさせないとなぁ。したかったことしないとなぁ。
いつもごきげんでいたい。
細かいことに気づきすぎなかったり、すぐに忘れてしまえる人が、けっこううらやましかったりする。気づくこと、覚えていることで役に立てることもあるわけだけれど、いつもリマインドや注意するのもつかれてしまうし。先を読めるのはいいけれど、それが人に伝わらないさみしさとか、説明しないといけないもどかしさとか。そういった感情も、言葉にしてはじめて、きちんとあったことに気づく。
気づいてないだけでずっといたんだね。しんどかったね。
掘り出す作業・吐き出す作業はだいじ。
そして知識のアウトプットも。
これからがんばろ。
つかえることば・なじまないことば
一般的にはみんなつかっているのに、なぜか自分でつかえないなぁと思うことばがある。
たとえば、日本語で書かれたときの「バイタリティ」。精力的なひとに使うんだろうけど、なんかしっくりこない。「生命力がある」とか「エネルギーがつよい」とか言い換えたくなってしまう。英語でつかう「vitality」に関してはこのほどじゃないんだけど。
自分の中にそのことばが浸透しきっていないからなのか、なんか抽象的で表現しきれていない気になってしまってつかえない。
同じようになんかつかえないのが、「素敵な人」という表現。「すごく素敵な人なの」とか、なんか言えない。素敵さにはいろんな種類があって、ひとくくりに素敵とまとめることができないような気がして、つかえない。他人が人をほめるときに「素敵な人なの」というのを聞いても、具体的にどう素敵なのかね、と聞きたくなってしまう。
でも「やさしい人」っていう表現にはひっかからないんだよなぁ。これもふんわりした表現だと思うんだけど、なぜかだいじょうぶ。
職場やまわりの環境で多用されている表現でも、自分になじまない場合はあたしはがんとしてつかわない。ちがう言い方を必ず使用する。
なんでこんなに気になるのかなぁと自分でも思うんだけど、意味がわからなかったり違和感があることばをそのまま使用してしまうと、自分で理解しきれていないものをそのまま放置してしまっている気になるんだろうなぁというのがいまのところの結論。漠然としてよくわかんないものをそのままにしておくのがこわいのかもしれない。わかった気になってほんとはわかっていないというか。
べつに神経質ではないんだけど、ことばでも食べものでも着るものでも、なんかひっかかるものってつかえないんだよねぇ。あんまりそういうのってっみんなないものなんだろうかね。
よい映画って
映画「プラダを着た悪魔」を2日で3回も観てしまった。まず英語、次に日本語、そしてまた英語で。
むかーしに観たことあったけど、なつかしくてまた観てみたら、なんか驚くことが多くなっていた。
吹き替えは吹き替えでよいんだけど、日本語でセリフを聞くとなぜか子供っぽく聞こえるんだよなぁと思った。表現の違いもあるけれども、英語ってのどの奥の部分から低く発音されるから、それだけで大人っぽく聞こえるんだとおもう。
そして英語だとささやき声でもちゃんと聞こえる…!アンディがミランダから去る前の車中のシーンが一番わかりやすかったかも。つぶやいてるくらいの声量なのにはっきり聞こえる、あのかんじ。耳元でささやいてもきちんと聞こえるんだろうなぁ。色っぽい。
それと昔はそこまで思ってなかったけど、ミランダの表情の作り方がうますぎて。"Everyone wants to be us"のセリフのあと、車から出ていく直前の表情の変化ったら…!!
あと最後のシーン、アンディを見かけたミランダのサングラスを押さえるしぐさから笑うまでの変化も、うまいなぁとほれぼれしちゃう。そして運転手のロイに"Go"っていうのも、オリジナルだと「(早く)出しなさいよ」ってニュアンスがあってミランダらしい。吹き替えだとやさしい言い方すぎてちょっ残念だったかなぁ。やはりミランダは傲慢だからこそミランダ。さいごのセリフなのにな。
なんか、観れば観るほどいい映画だったんだね。アンディのきれいになり具合もすき。
ようやく
ずっと見る気にならなかったDVDがあって。録画していた内容自体はすごく好きなものたちで、でも長らくそれを整理するのには食指がわかなくて。
あたたかくなって生物として元気になったからか、ようやく中身の確認からしていった。
当時いっしょに住んでいたひとが、あたしが好きだからと有料番組登録から録画からダビングから全部してくれていたもので。さいごに持たせてくれて。
ずっとどうしようもない思いはあったけど、ようやくこれらを見れて、あー、でも大事にされてたんだわ、わるかったなとようやく思えた。
この数年であまりにもいろんなことがあって、思い出すこともなくなってたけど。でもなんかひっかかってたんだなと、ちょっとおもう。
そしていまになってようやく、ありがとうともういちど思えてよかった。
もう言うことはないけど、そうおもいなおせてよかった。
ぷち幸せ
大阪に戻ってきてからはや一ヶ月。ぼけーっとして過ごしているせいもあるけれど、日々掃除や洗濯、料理ができてすごくうれしい。
そして何よりストレスフリーなのが、「好きなだけ調味料や食品を買えること」!
移動の心配をしなくていいから、使い切りを考えたりせずにいいものを揃えられる。それがもう快感で仕方ない。調理器具ひとつとっても、気に入ったものを見つけたときに我慢しなくていい!なんて素敵!
すごくお金持ちだったら、いろんな場所それぞれにいい器具を揃えて住むという選択肢もあるんだろうけれど、もったいながりなのでそんなことはできない。よいものを大容量で持てるというのは満ち足りた生活の第一歩なんだなぁと実感した。
それと。
まだ比較的暖かい日が続くけれども、もう真夏の服やサンダルはいいかなぁと思ってぷち衣替えをした。これから着る秋~初冬のお洋服を出して、ブーツやパンプスを出して。いらない靴箱を整理したら、今までは入りきらなかった所持しているすべての靴が靴箱に収まって感激!山靴も収納できちゃった。(一度履いて乾かしていたらなくしてしまった中敷きを先週新調したので、これで登山やハイキングもOK!)
部屋やスペースを綺麗に保っておけるとそれも幸せ。
少しずつ調整して心地いい状態にするってすごく大事。これからもできるだけ続けてこうっと。
読書感想文⑤ 落陽
『落陽』 朝井まかて
帰国後、東京に滞在しているあいだに明治神宮に参拝した。全く知らなかったけれども、今年で造営されて100年になるとのこと。展示されていたパネルを見て驚くとともに、明治神宮の杜(もり)が人の手によって造られたものだということも実は初めて知った。
そして大阪に帰ってきて本屋に本を大量に仕入れに行ったときに目に入ったのがこの本。友達にお勧めされてから朝井まかては大好きで、気になるものがあるたび読んでいた。しかしまさか明治神宮造営についての小説をこんなにタイムリーに見つけるとは。
彼女の本はいつもそうだけれども、あれよあれよと読み進めてしまう。そして読むたびにそうだったのか、と勉強になる。
明治維新後、国の求心力を高めるために京都から移動した明治天皇。当時御年は数えの17歳。愛する京都。幕末の戦いで見る影もなくなった東京。しかし政府のためにと江戸城跡に移り、亡くなるまで東京で暮らす。しかし、だからこそ、亡くなった後は京都に眠りたいとして霊廟は京都に作られる。
神とまであがめられた天皇を、なんとか東京に祀りたいとして造営を計画されたのが明治神宮だった。しかし人口の森を造るには、東京はあまりにも痩せすぎた土地である。そこで、150年経って初めて完成される森を造る計画が立てられる。
何も知らずに明治神宮を歩いていたときには露とも思わなかったけれど、あの壮大な森が人の手によって造られていたこと、そしてそうまでして祀りたいと思わせるほどの天皇の権威。見事に描かれていると思う。
そして何より、それまでは神事を行うことが重要とされた天皇が、近代国家の君主として他国の君主と対等に外交しなければいけなくなった事態。天皇の存在意義とは、自分の役割とは、と悩み考えつくしてきた姿が心に残る。
国を想い、民を想い、その想いを一身に背負う天皇という存在。並大抵の心構えでは務まらないんだよなぁ、と再認識した。そうして日々祈ることを続けているから、天皇という存在はあれだけ威厳を放っているんだなぁ、と、奈良の橿原神宮で拝見した平成の天皇陛下の、何とも言えない気品ある存在感を思い出した。
時代は変わる。しかしそれでも人々の祈りは続いていく。
英語と自分の関係
英語から日本語への翻訳レビューというものを初めてしてみた。
きっかけはマーケットで急に声をかけられたこと。日本人の友達と話しながら歩いていたら、「日本人?英語話せる?手伝ってほしいことがあるんだけど」と。(もちろん会話は英語で)
なんでも東京で開催されるデザインのコンペティションに参加するけれど、日本人の友達がいなくてデザインの説明文をチェックしてほしかったとのこと。こんな時期なのにコンペティションがあること、そしてアートの街メルボルンに住む人が日本のコンペティションに参加するということ。なんだかうれしくていいよと引き受けた。
翌日メールにて文章が送付されてきて、彼によるとそれはPapago(っていう翻訳アプリ?があるそうですね?)で自動翻訳してみたものらしい。はっきり言って、ようわからん。もとの英語も送ってもらって見てみると、彼の伝えたい概念と翻訳機の選ぶ言葉が違っていて、さらに英語だと確かにその表現なんだけど、日本語でそのまま一文にするとわかりづらいしもっと説明がいる、ということがよくわかった。あることばひとつ取っても、日本人の思い描くイメージと、彼らの持つイメージが異なることに気付いた。
今回一番ひっかかったのは「Diversity」。彼の考えでは、Diversityは大切だけれども、ひとつひとつのものの価値を持ち主が理解していないと、本当には意味はない、ということ。近年はものにあふれていて、ものを買ってはすぐに興味を失って次、次、といくことが多い。彼はそのことに疑問を持っていて、ひとつのものや行動に焦点を当てることをテーマにしていた。ひとつひとつのものや行動のもつ意味を考えることで初めて、Diversityのある人生は豊かになるとのこと。
Diversity=多様性だとなんか違うでしょう?ほかに訳し方あるのかなぁ。
結局あたしは「Diversity=たくさんのものがあること」と定義づけをして、そのまま英語として使った。これは彼ならではの概念も含まれていると思ったから。
全文を通してかなり行間を埋めて翻訳しなおしたから、言いたいことをきちんと抽出できていることを願うのみ。でも「ここでのこの単語や表現はこういうことだよね?」って本人に聞くときには英語を使わなきゃいけないから、日本語のニュアンスとして聞ききれない(英語で説明しきるだけのボキャブラリーをあたしは持たない)ところが難しく、それでいておもしろかった。
そこで思ったこと。翻訳者の人ってなんてすごいんだろう。
物語や史実を翻訳することに関しては比較的訳しやすいのかもしれないけれど、ある人の考える概念であったり哲学を訳すというのはそうとう骨の折れることなんだと思う。直接的な翻訳だと意味が取り切れないし、意訳をすると原文と見比べたときに本当にこれでいいのかと考え込んでしまう。一文をふたつにわけるだけでも最初は勇気がいったし、でも日本語で表現すると切らざるをえないしと思い直す。
そのうえ使われているワードの意図はこれでいいのかと著者に聞けないとかなり困ったことになるのは想像に難くない。ハリー・ポッターの翻訳者、松岡佑子さんが初期の翻訳に意味のとり違えがあったというのも、シリーズの最後の方まで伏線がかくされていて、最後になって初期の描写が効果を発揮するものだったからだと本当に納得できる。しかもローリングは秘密主義なので、本人に聞けないのはかなり難しい。それだけ隠された状態でよく訳されましたねと、自分で少し試してみたからこそ拍手を送りたい。
大好きな翻訳家、アレッサンドロ・ジェレヴィーニさんも、「翻訳者は裏切り者だ」と述べている。特に文化的背景が全く違う言語に訳しなおす場合、その文化圏では既知の人物、ことわざ、比喩表現を、訳される側の背景にどう置き換えるかという問題があるからだ。著者の表現している世界をそっくりそのまま伝えることはどうやってもできない。だからこそ彼は、翻訳された本がベストセラーになればなるほど、うれしい反面不安でもあるらしい。間違ったイメージを伝えているのではないかと感じるからだそうだ。彼ほどの言語能力を持ってしても伝えきれない部分はあるんだなぁ、と感慨深かった。
そして。最近英語の勉強にとダ・ヴィンチ・コードを読んでいたのだけれど、原文を読めば読むほど、日本語で昔読んだものを読み返したくなった。もう売ってしまって手元にないからまた買わなくちゃいけないけれど。ストーリーを把握するため、ではなく、表現をどう訳しているのかがすごく気になった。これはハリー・ポッターにも言えること。
それほど英語に親しんでいなかった頃には読み比べるなんて思いもしなかったけれど、どのくらい意訳しているのか、あたしの知らなかった英語ならではの表現をどう訳し切っているのか、とても興味が湧いてきた。そういう楽しみ方もあるんだなぁ、と新しい発見がうれしい。
それと、自分にとって英語を学ぶことの一番の楽しさは、もしかすると翻訳という作業を通してどう日本語で表現できるのかを知ることなのかもしれない、と感じた。どこまでいっても興味の対象は書かれた文章、どうしようもないBookwormなようだ。