そんなこと、と思う発見

メルボルンが二度目のロックダウンに入って一週間。なぜよりによってこの街だけが、と思ったりもしたけれど、最近はそれでもここに来てよかったなぁと思うことが多い。

三ヶ月ぶりに学校に戻り授業を受けている。前にいた子たちがすでに卒業していたり、はたまた母国に帰ってしまっていたりして、生徒の人数はすごく少ない。それでも知った友達、先生、見慣れたキャンパスにほっとして、変わらないみんなの優しさに元気をもらっている。

それぞれに思いもよらなかった状況に対応していて、制限があっても楽しく暮らしている。お互いの国の状況や今後の進路について、わかんないよねぇと言いながら話すのも興味深い。それぞれの政府の反応の違いを知れるのもおもしろかったりする。

もちろん今後への不安もあるし、本来なら自由に移動できたのに実際はできないことへの落胆もあるし、外出できない期間はつらかったりもした。でも通常とは違うこの期間を、日本ではない場所で、知り合って間もない人たちと過ごすことによって、より人とのつながりの大切さに気付けたような気がする。そして知らない土地で長い時間を与えられたからこそ、自分について考え直すこともできたし、自分の生まれ育った国について別の視点から見ることができるようになった気がする。中にいるとわからないことってあるもんなんだねぇ。

 

それと自分にとって新しい発見。それは仕事しながらでも勉強ってしていけるんだなぁってこと。必死で働くことがすべてじゃないんだと思えたこと。毎日少しずつでも学ぶことはできるんだということ。

実は日本の中にいたら気付けなかった。なんかこれに気付いただけでもこっちに来た意味あったかなぁと思った。もっと楽しみながら成長していいんだね。がんばるだけではないんだね。

そんなこと、と感じるかもしれないけど、大きな発見。うれしい。

最近の課題

自分のしたいこと、今後の生き方、について考えている。

 

もともとあまり上昇志向はなくて、成功するだとか富を手に入れるという考え方はしっくりこなかった。だから本はたくさん読んできたけれど、啓蒙書の類はチラ見しかしてこなかった。どちらかというと避けてきていた。しかし今回、せっかくの機会なので読んでみた。

いわゆる「成功するために」という考え方では、まず自分が何をしたいのかという「願望」をはっきりさせること、目標を持つことが何より大事だといわれる。そして計画を立てて実行していくことが必要だと。

はて、そこでふと立ち止まる。

そこまで熱意を持ってしたいことって思い浮かばないんだけどなぁ、と。

 

困りながらも、仕事に限らず、この一生でしたいことを真剣に考えた。そこで思い至ったのは、「子供を産んで育てること」であり、「自分が子供だった時と同じようなタイムサイクルで暮らすこと」だった。つまり、朝起きてご飯を食べる余裕のある状態で一日をはじめ、子どもがご飯を食べる時間に無理なく帰宅し、作って一緒に食べられること。

おそらくそれが最も優先させたいことで、それを可能にする働き方ができるのであれば、「この仕事でないとダメ」とは思わないのだろう。

ただ実際に、日本に戻って仕事を探すことを考えると、おそらくこれまでの知識を生かして就ける職、それも正社員を目指すんだろうなと思っていた。そしてそれに向けて、今いる場所で意味のあることをする必要があるのではないか、と感じて焦っている。

そこまで考えて、ようやく最近の悩みとはその焦りが原因だったんだ、ということに思い当たった。その焦りは、自分ではなく、他人から見て意味がある結果にフォーカスしすぎていたことから生じていた、ということにも。

 

本来仕事をやめて旅行をすると決めたのも、もちろんもともと旅行したかったという理由もあるけれど、オーバーワークでよく考えられなくなっていた自分を見直すことが大きな目的だった。でも例えばなぜオーストラリアに来たか、なぜワーキングホリデーという選択肢を取ったのか、と聞かれたときに、「旅行しつつ働けたらいいじゃんね?」という元来の理由じゃなくて、「英語をもっと使えるように」とか「こっちのインターンシップにも挑戦してみたい」とか、後付けの、そして他人に納得してもらいやすい理由を答えるようになっていた。なぜなら背景の説明をしなくてもわかってもらえるから。

でももともとの理由はそれじゃないから、予定を変更するときに何かと説明しないといけない。特に今回のように世界中で正常でない状況になった場合は。

 

で、そこで気づいたのが、人から見てわかりやすい、いわゆる「正当な」選択肢を選んでたんだなぁっていうこと。「なんで?」と聞かれて説明できないのがいやだから、説明しなくてもわかってもらえる、安心で安全な選択をしようとしていたこと。

日本に帰って仕事を探すにあたっても、自分の本当に優先させるべきことが「時間」なのであれば、カジュアルな働き方を考える選択だってあったはずだけど、がっちり働くことしか見えていなくて、「あぁ、また長時間働くなんてことができるんだろうか」と不安になっていた。でもそれも、「どうして大学まで出て、それなりに長く働いて、オーストラリアまで行ったのにその選択をするの?」と聞かれることへの防御。

どんな働き方であってもいいんじゃないの、と今まで口では言ってきて、心からそう思っていると信じてた。でも、実際自分が選択するときには、正当というか、一般的なところから外れることを避けていた、すごく虚栄心を持っていた、ということに初めて気づいて驚いてしまった。

比較的好きに生きていると思っていたけれど、自分でも知らないうちに、他人の目をすごく気にしていたということ。びっくりした。ショックでもあった。

 

ただ、本当に無意識のうちに選択していることが、まわりの目を気にしていることに、芯から気づけてよかったなぁ、とも思う。だって自分でなんでも選んでいる、と信じ込んでいたのに実際は目に見えないところで他を気にしていたなら、いつまで経っても本当に大切にしたいことが見えなかったろうから。

 

ちょっとまだ難しいけれど、自分の望むことと、他人から見て望まれる(と思い込んでいるだけかもしれないけど)こととを、分けられるようになろう、と思った。今のところの課題。

根を張る

ついこの間、友達としゃべっているときに気づいてびっくりしたのだけれど、「どこか根を張れる場所に落ち着きたい」と感じていることに思い当たった。これまではずっと旅行したい、世界中飛び回っていたい、と思っていたから本当に驚いた。

でもよく考えてみると、去年の夏に仕事を辞めて3か月欧州に旅行に出て、そのあと日本に帰ってからも各地をまわり、冬になったらオーストラリアに来た。そしてここでも次の街にはいつ移動できるのかを常に考えている。

夏に旅行に出る前も、旅行中も、日本にいっとき帰っているときも、そして今住んでいても、いつも「次の移動」が頭を離れない。持ち物を増やすことはできないし、食料品や調味料も使い切れるかどうかを考えて買い物する。つまり、落ち着いていられないのである。そして先のことを常に考えていないといけないのである。

これは初めのうちはよかったけれど、1年近くこの状態が続くとかなりしんどい。もちろん、それが苦にならない人もいるのだろうし、そもそももったいないなんて思わずに買いたいものを買う性格なら全く問題ないんだと思う。

自分のことをけっこう思いきれる性格だと思っていたけれど、実際には細かいことまで気にしてしまうし、予定に向けて着実に整理していきたいんだとわかった。そうだったのかぁ、と少し納得。

まぁそんな感じで、一つの場所に落ち着きたいなぁ、と思いつつ、ほぼ初めて日本を恋しく思っているところ。家族ほしいなぁ、なんて思ったりして。行動の制限が理由のひとつにあるんだろうけどね。

そのうち帰ったら落ち着く場所を見つけるかもしれない。でも本当に今までは「落ち着くって何?好きに旅しないといや!」と思っていたから、かなり意外。

 

でもふと思ったけれど、もしずっと同じ仕事をしていて、出たかった長期の旅行にも出なくて、そのまま残っていたら、同じことを思えたんだろうか?

きっと思えなかったと思う。

したいしたいしたい、と思い続けていたことは、それを試してみて満足しないと次に進めない。もしあの時選択していなくて、今みたいに国の間の行き来が制限されてしまったことで実行できなかったなら、きっとできなかったことをひきずって次のするべきことに進めなかっただろうと思う。こんな気持ちにならなかっただろうと思う。

思う存分旅行して、思う存分ぼーっとした。

だからこそ思えているのかもしれない。根を張りたい、と。

紅茶の幸福

お茶が大好きで、特に紅茶は毎日飲んでいる。

あったかいミルクティーを飲まないと朝が始まった気がしない。もう何年もそうだ。

特に濃い紅茶に牛乳を注いで飲むのが一番好き。お砂糖は入れないけど、たまにはちみつをたらす。

ストレートだと苦い、と感じるくらいの濃さでも、牛乳とともに飲むとちょうどいい。紅茶には昔から牛乳を入れて飲んでいるけれど、たまにお店(喫茶店ではなくパン屋さんだったり、ファストフード店だったり、紅茶を飲ませるのがメインでないお店)で紅茶を頼むと、コーヒーフレッシュが渡される。あれはすごく悲しい。コーヒーと違ってさらっとした紅茶に合うのは、同じくさらっとした牛乳だと思う。生クリームに近いミルクも、クリーミーすぎて私は少し苦手だ。

ちなみにコーヒーもあまり好みではない。口の中に苦みというか、ざらっとした感覚が残って、すぐに別のさらっとした飲み物(主にお水)が飲みたくなるから。それに1日に2杯以上飲んだら気分がすぐれなくなってしまう。匂いは大好きなんだけど。

蒸気でろ過する種類のコーヒーは比較的軽めの舌触りで、はじめてイタリアで飲んだときにはびっくりした。もう1杯飲める、と思った。(実際もう1杯飲んでも大丈夫だった。)

 

紅茶に戻る。ミルクティー合うといわれるアッサムももちろん好きだけど、アイリッシュブレックファーストが実は一番好みかもしれない。イングリッシュブレックファーストがすごく有名で、それに似た名前だけど何か違うのかしら、と思ったのが初めての出会い。アメリカのスーパーマーケットで。

飲んでみてすごくうれしくなった。コクがあるのにさらっとしている。好み!!

そのあと日本で探したけれど、あんまり置いてないなぁ、と感じた。もっと真剣に探したらみつかるんだろうけど。

だから久しぶりに(5年ぶり!)ふと見かけたときにはすごくうれしくなって、100バッグ入りの大きなものしかなかったけれど、すぐに買って飲んだ。幸せな気持ちになった。

紅茶は名前も好き。「フェイマス エディンバラ」や「プリンス オブ ウェールズ」、聞いているだけでわくわくしてしまう。

スリランカの紅茶の名称の土地に行くと、それだけで顔がにやける。あぁ、この土地で育った紅茶なのね、とにこにこしてしまう。スリランカからの旅行の帰りには、1年以上もつんじゃないの、というほど紅茶を買って帰った。すごく満たされた気持ちになったのを覚えている。本場のミルクティーはミルクが日本のものと違っていて、それもすごくおいしかった。

 

すごく気分のふさいでいるときも、寒くて元気の出ない日も、紅茶を飲むと幸せな気持ちになる。熱い真夏であっても、あったかい紅茶を飲むのが私は好きだ。

読書感想文④ 美味礼賛

『美味礼賛』 海老沢泰久

 

名前だけ聞いたことあるなーとずっと思っていた本。Kindle Unlimitedで入手できたのでこれを機に読んでみた。

まず驚いたのが、地元近くの辻調理師専門学校を本格的に立ち上げた辻静雄の半生を描くものだったということ。思っていた以上に自分の行動範囲に近いものでわくわくした。そして、彼が「本物のフランス料理」を日本に広めた人物だということも初めて知った。いわゆる洋食屋さんの料理がフランス料理だと思われていた時代があったということ。本格的にフランス料理やイタリア料理、はたまたモロッコ料理なんかが食べられる現代からは想像もつかない世界だった。

海外への旅行が今ほど自由にできなかった時期、それでも本当のフランス料理を学んで日本に広めるべきだと決心し、まずはガストロノミー(美食学)の研究者のいるアメリカへ、そして本場フランスへと旅立っていく。紹介に紹介を重ねて、名だたるレストランにて料理の味を覚え、それを日本の学校に持ち帰る。その後も、本物が分かる料理人を育てるためにどうすればいいのかを必死に考え、そのために全力を尽くす。

多くの人が彼に力を貸したのは、自分の都合ではなく将来の人材を育てるべきという彼の考え方に希望を見たからだと思う。創始者、創業者を見ていて感じるエナジーを彼にも感じたのだと思う。

 

成功した人の話として読むのももちろんおもしろいのだけれど、この本の別の楽しみ方としては「料理の質感を味わえる」ことだと思う。筆者の海老沢泰久は、料理の感想を表現する言葉を一切使わない。その代わりに、料理の手順、材料などを細かく描写する。逆にそのことで、さも目の前に料理があるかのような錯覚を起こす。

主観的な表現をあえて排除することで、客観的な事実のみが浮かび上がり、それが想像を豊かにする。なかなかできない描き方だなぁと思った。

 

それともうひとつ。

こんなに有名なレストランおよび料理人が出てくる小説もあまり見ないので、これをガイドに有名レストランをまわってみるのも面白いと思う。料理はもちろんのこと、「サーブのプロ」についてもらうのは、自分が仕事をするときにも取り入れられる配慮に満ちている気がする。だって1年前に1度だけ来た顧客の注文した料理を覚えているだなんて、なかなか普通だとできないですもんね。

日本だと飲食業の地位というかポジションってそんなに高い位置に置かれていないと思うんだけれど、もっと大事なものとして認識されてほしいところ。

 

食べることはそのまま生きること、自分の体を構成するものになるから、本当はすごく大事にしなければいけない。働くことが忙しいからと、パソコンの画面を見ながらおにぎりを食べる、なんてのは日本くらいなのでは、と思っている。食べることのために時間をとる、大切な人たちと食事をする、って、すごく人間らしいしそれが生きることなんだと思う。人間らしくない状態で生きる意味ってなんなんだろうね?

 

ちょっと本筋とははずれたけれど、本気で何かを変えたい、それが自分ではなく日本のためになる、と思ってすることは、大きな結果をもたらすんだなぁと思った本でした。

忘れてない、ということ

少しへこんでしまっている時期、というのが誰にでもあると思う。基本的に能天気に生きているあたしも、数か月に一度、自分ってちっぽけ、とか、なんかパワフルになれない、と思うことがある。

ちょうどここのところがそんな時期で、少し元気がない状態だった。別に生活に支障が出たりはしないけど、自分て何の役に立っている?とか考えてしまったりして。

そんなときに、いつもはあんまり直接連絡をしない姉から「テレビ電話できるようになったよ!」と連絡がきて、ちょっとべらべら30分くらい話していた。なんていうことはない、近況だったり、どこも外出できなくて大変だよね、なんていう世間話。

電話で話す前、メッセージが来た時点ですでにうれしかったんだけど、顔を見て声が聞ける(それも思いもかけないタイミングで)、といのはとても温かくなれることだった。

帰国するか考えたときにも、母に電話をかけ、こちらほど事態を深刻に見ていない彼女の話口に次第に元気をもらい、ついさっきまでどうしようと思っていた不安が吹き飛んだことを思い出した。

ひとりじゃない、と思えること。さらに文字だけでなく声が聞けること。はたまた顔が見れること。特に同じ国にいないからすぐに会えない、というときにそれは本当にありがたいことだった。

 

それともうひとつ思い出したこと。

学生時代、友達が(どこの国か忘れたけど)留学していたとき。それなりに行ってから期間が経っていたけれど、ふと思い出して「元気?」と連絡してみた。本当になんとなく、当時はまだスマートフォンがなかったから、パソコンからのメールで。

そうしたら、たまたまその日にあらゆる失敗が重なってものすごく気落ちしていたらしい友達は、そのメール一通ですごく元気が出た、と、こちらが驚くほどうれしがってくれた。

その気持ちが今はよくわかる。

毎日顔をあわすわけじゃないから、忘れてしまうかもしれないけど、でもふと思い出してくれる人がいること。

 

ひょっとすると毎日近況をSNSなんかで更新していたらその感覚は得難いものなのかもしれない。毎日会ってはないけど、何してるかは知ってるよ、と思うかもしれない。

でもじゃぁ近況を更新しなかったら?覚えていてもらえるのかな。

こちらが発信していなくても、気にしてもらえてるんだな、ということ。

そして近況を知らないからこそ元気かな、と思いを馳せること。

それはとても心温まることだな、と実感した。

読書感想文③ 武士道

『武士道』 新渡戸稲造(訳:奈良本辰也

 

これは前職でお世話になった方から、退職時にいただいたもの。噂に聞いたことはあったけれども読むのは初めてだった武士道。

まず感じたのは、武士道精神の発展した頃の日本人というのは「名誉を大切にする」=「恥をかくのをいやがる」民族で、それが何世代にも渡ってすりこまれているということ。そして感情を表出することは誠意に欠けると考えられていたため、我慢強く、思ったことをすぐには発しないということ。

あぁ、これらはいわゆる日本人の特徴だなぁと感じると同時に、実際に武士という階級ができる鎌倉時代以前から、武士道のかなめともいえる「忠義」という考え方があったのだから、武士道精神というのは1000年以上に渡って日本人を育んだものなんだもんなぁ、と納得した。

 

そもそも新渡戸稲造がなぜ武士道という英語の本(論文?)を書くようになったかというと、「宗教教育がなくてどのように道徳教育を授けるのか」とベルギーの法学者に質問されたから。神道、仏教、儒教と教えられてはいるけれど、実際現在でも無宗教という日本人は多い。そこで新渡戸稲造が思い当たったのが武士道。逆に他の国って宗教をもって道徳教育をするのかぁ、と新しい発見だったりして。

だから内容としては、日本人の道徳観念(正しいと思うことを恐れずにする、他者への思いやりを持つ、礼儀正しくあること)の説明、忠義とはどういうことか、なぜ切腹して命を捨てるのか、ということが書かれている。

武士道精神なんて今はもうないんでないの、と思ったりするかもしれないけれど、例えば「「個」の意見より「全体」のことを考える」、「礼儀正しくあるためには多少の嘘(いわゆるお世辞とか)をつく」、「人に笑われないことが何より大事」なんていう考えは多くの日本人に今でも当てはまる性質だと思う。また武士が損得勘定をとるのは卑しい、という考えから算術を学ばなかった、というのは、現在の日本の主な大学がアメリカの大学と違って研究成果を収益に結びつけられないことと関係があるのかもしれない。もしくは投資に消極的な人が多いこととか。

あとは「妻は夫のため、夫である家臣は主君のため、自己を否定して仕えるのが忠義」ということからわかるように、自己否定により成り立つ文化だったといえる。自己肯定している人の割合が日本に少ないのは昔からの風習か、ということが見えてくる。

特に日本以外の場所にいる機会が長いと、自分たちの国民性はなぜこうなのか、ということを考えるようになる。そういうタイミングにちょうど読んだから、日本人として驚いたし、これは日本の国民性を説明するのに本当にわかりやすい文献だなぁと感じた。原文(英語)をぜひ読み直してみたい。

 

ここまでで、武士道で紹介される日本人の性質について、否定的に受け取っているとみられる書き方になっているかもしれないけれど、いけないとは思ってない。ただ、長らく続いた封建社会に生き、主君に忠義を尽くすことが何より大切で、名誉を重んじ、自分を律してきた我々が、仕えるべき、また逆に仕える代償として絶対的に守ってもらえるものをなくしてしまった、というところから変容できていないのかな、と思う。

封建社会での君主、明治以降の天皇、戦後でいうと終身雇用を約束した会社、そういったものが絶対ではなくなって、それらのために働くということが何より大切だったから、それが揺らいだときにどうしていいかわからなくなる。実際、働くことには一生懸命でも、仕事のないときにする趣味が比較的少ないというのはままある話ではないかな。

もはや「恥」を気にしなくていいんだよ、という認識だけ変えれたら、その他の「正しいことを行うこと」、「他者へのあわれみを持つこと」というのはすごく大事なことなのでは、と思っている。